石原とし子は佐藤浩市の母|神楽坂ナンバーワン芸者と三國連太郎の波乱の結婚

石原とし子は佐藤浩市の母|神楽坂ナンバーワン芸者と三國連太郎の波乱の結婚

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佐藤浩市さんの母として知られる石原とし子さん。神楽坂でもっとも人気を誇った売れっ子芸者として、数多くの文化人や芸能人を虜にした女性です。

三國連太郎さんとの波乱に満ちた結婚生活、そして10年に及ぶ別居と離婚を経て、子どもたちをひとりで育て上げた彼女の人生は、強さと誇りに満ちていました。

この記事では、石原とし子さんのプロフィールから三國連太郎さんとの出会い・結婚・離婚の経緯、息子・佐藤浩市さんの名前の由来まで、詳しくご紹介します。

石原とし子のプロフィールと花柳界での活躍

石原とし子さんは、神楽坂の花柳界でトップの地位を誇った芸者です。ここでは、彼女の生き方と、三國連太郎さんとの運命的な出会いについて見ていきます。

  • 神楽坂一の売れっ子芸者になるまで
  • 勝新太郎との常磐津の縁
  • 三國連太郎との出会い
  • 石原興と尾崎奈々の関係

神楽坂一の売れっ子芸者になるまで

石原とし子さんは、東京・神楽坂の花柳界で活躍した芸者です。「神楽坂一の売れっ子」と称されるほどの人気ぶりで、その美貌と卓越した芸によって、多くの文化人や芸能人を魅了し続けました。

神楽坂は、江戸時代から続く花柳街として東京を代表する地域のひとつです。牛込の台地に広がるこの街は、料亭や待合が軒を連ね、作家・文豪から映画人まで、時代の文化を担う人々が集う場所として知られていました。昭和の戦後になってからも、神楽坂の花柳街は東京有数の宴席文化の中心地として賑わいを見せており、一流の芸者を揃えた料亭には錚々たる顔ぶれが集まっていたのです。

そうした競争の激しい花柳界の中で、石原とし子さんはひときわ輝く存在となっていきました。芸者に求められる芸は多岐にわたります。日本舞踊や三味線、唄、お座敷での立ち振る舞いなど、いずれも高い水準が求められる世界です。石原とし子さんがその中でも特に磨きをかけたのが、「常磐津(ときわず)」という伝統的な音楽ジャンルでした。

常磐津は江戸浄瑠璃のひとつで、力強い節回しと格調の高さが特徴です。歌舞伎の舞台音楽としても使われており、習い事の中でもとりわけ格が高いとされるジャンルのひとつです。石原とし子さんはこの常磐津の習得に力を注ぎ、その腕前は師匠に認められるほどに達していたといいます。

神楽坂の宴席で引っ張りだこになった石原とし子さんの評判は、やがて花柳界全体に広まっていきます。「神楽坂ナンバーワン」の名声を手に入れた彼女は、当時の芸能・文化界の人々とのつながりを深め、その後の人生を大きく変える出会いへとつながっていくことになります。

勝新太郎との常磐津の縁

石原とし子さんにまつわるエピソードのなかで、特に注目を集めるのが勝新太郎さんとの関係です。

「座頭市」シリーズをはじめとする数多くの名作で知られる昭和の大スター・勝新太郎さん。豪放磊落でスクリーン内外を問わず破天荒な言動で知られるその存在は、昭和の映画史において特別な地位を占めています。

実は、石原とし子さんと勝新太郎さんは、常磐津の同じ師匠のもとで学んだ「兄弟弟子」という間柄でした。

「兄弟弟子」とは、師匠を同じくする弟子たちの間で使われる表現です。同じ師匠に師事するということは、稽古の場で顔を合わせ、同じ目標に向かって切磋琢磨した仲間であることを意味します。芸の世界における「兄弟弟子」の絆は深く、たとえ活動の場が異なっていても、師匠への敬意と芸への誇りを共有する間柄なのです。

芸者として花柳界で活躍した石原とし子さんと、映画俳優として名声を誇った勝新太郎さん。それぞれまったく異なるフィールドで生きた二人が、常磐津という芸を通じてつながっていたというエピソードは、石原とし子さんの芸の深さを物語るものとして語り継がれています。

勝新太郎さんのような昭和を代表する大俳優と同門だったという事実は、石原とし子さんが決して「三國連太郎さんの元妻」だけではない、確固たる自己を持つ人物だったことの証明でもあります。神楽坂一と評された彼女の芸は、本物の稽古と修練によって培われたものだったのです。

三國連太郎との出会い

石原とし子さんと三國連太郎さんが出会ったのは、1952年のことです。

三國連太郎さんは当時、映画「戦国無頼」の撮影に参加していました。この作品は稲垣浩監督による時代劇映画で、三國連太郎さんにとって俳優としての地位を固めていく重要な時期の作品でした。その撮影の合間に、石原とし子さんと知り合ったとされています。

三國連太郎さんの本名は「佐藤政雄」。映画俳優として活躍していた三國連太郎さんは、すでに2度の結婚と離婚を経験しており、自由奔放な私生活でも世間の耳目を集める人物でした。そんな三國連太郎さんが、神楽坂一と謳われた石原とし子さんの美貌と芸に心を奪われたとしても、不思議ではありません。

出会いから結婚まで、5年の歳月がありました。その間、二人がどのような関係を築いていたかは明らかになっていませんが、1957年に正式に結婚することになります。石原とし子さんにとってはこれが初めての結婚であり、三國連太郎さんにとっては3度目の婚姻でした。

三國連太郎さんの本名が「佐藤政雄」であることから、石原とし子さんは結婚後、佐藤姓を名乗ることになります。そして1960年には待望の男の子が誕生しました。後に俳優として父と同じ道を歩むことになる佐藤浩市さんです。

花柳界の華やかな世界から、映画人の妻という新たな生活への転身。石原とし子さんの人生は、三國連太郎さんとの出会いによって大きく動き始めたのです。

石原興と尾崎奈々の関係

石原とし子さんに関連して、しばしば検索されるのが「石原興(いしはらしげる)」という人物です。

石原興さんはテレビドラマの監督として活躍した人物で、特に1970年代から放映が始まった「必殺シリーズ」のカメラマン・監督として名を馳せています。「必殺仕掛人」にカメラマンとして参加以来、シリーズを支え続けた石原興さんは、「必殺」の世界観を映像として作り上げた立役者です。

1973年、石原興さんは女優の尾崎奈々さんと結婚しています。尾崎奈々さんは松竹の清純派女優として活躍した昭和の銀幕スターで、「松竹大船最後の清純派」とも呼ばれた存在です。

「必殺シリーズ」を支えた監督・石原興

石原興さんは「必殺シリーズ」のカメラマンとしてキャリアをスタートさせ、後に監督として多くの作品を手がけました。逆光や極端なローアングルを活用した独自のカメラワークは、「必殺」ならではの陰影ある映像美を作り上げたとして高く評価されています。

石原興さんは必殺仕事人2009への参加時に、作品への姿勢についてこう語っています。「撮影中は興奮状態にあるから冷静に判断できない。完成したものを見ると反省しかない」と。職人的な完璧主義が、「必殺シリーズ」の高い完成度を長年にわたって支え続けてきたのです。

「雲霧仁左衛門6」(2023年)でも演出を手がけており、高齢になってなお第一線で活躍を続けている点も驚きです。

尾崎奈々が引退を決意した理由

尾崎奈々さんは1960年代後半から1970年代初頭にかけて、松竹の看板女優のひとりとして輝いた清純派女優です。大阪府出身で、「あしたからの恋」(1970年)などの作品に出演し、映画とテレビドラマが共存していた過渡期の昭和芸能界において、清楚な演技とヒロイン的な存在感で人気を博しました。

1973年、石原興さんとの結婚を機に女優業を引退します。当時の芸能界では、女優が結婚を機に引退するケースは珍しくなく、尾崎奈々さんもまた家庭を優先するという選択をしました。1977年には昼ドラ「みれん橋」で一時的に復帰しましたが、その後は表舞台から離れています。

活動期間は7年ほどと決して長くはありませんでしたが、「昭和のヒロイン像が映画からテレビへ移り変わる瞬間を体現した存在」として、今もファンの記憶の中に生き続けています。

石原とし子と三國連太郎の結婚・離婚と息子・佐藤浩市

結婚後の石原とし子さんの生活は、幸福な出発から一転、試練の連続となっていきます。ここでは、結婚生活の実態と離婚後の日々について詳しく見ていきます。

  • 1957年の結婚と家族の誕生
  • 浩市という名前の由来
  • 三國連太郎の不倫と家出
  • 離婚後に子どもを育てた日々

1957年の結婚と家族の誕生

1957年、石原とし子さんと三國連太郎さんは正式に結婚しました。三國連太郎さんにとっては3度目となる婚姻でした。過去に2度の結婚と離婚を経験した三國連太郎さんは、その奔放な私生活でも知られていましたが、石原とし子さんとの関係は5年の交際を経ての正式な結婚という、これまでよりも慎重な経緯でした。

結婚後、石原とし子さんは芸者としての仕事をおさめ、家庭へと入っていきます。三國連太郎さんの妻として新たな生活をスタートさせた石原とし子さんにとって、それは花柳界の華やかな世界からの大きな転換でもありました。

1960年には待望の男の子が誕生します。この子どもが後の俳優・佐藤浩市さんです。また、娘さんもいらっしゃいますが、一般の方として生活されており、詳細は公表されていません。子どもたちの誕生によって、石原とし子さんと三國連太郎さんの家族は新たな形を作り上げていったのです。

三國連太郎さんの本名は「佐藤政雄」といいます。「三國連太郎」は映画デビュー時につけられた芸名で、戸籍上は佐藤姓のままです。そのため、息子の佐藤浩市さんも「佐藤」という姓を受け継ぐことになりました。石原とし子さんが「佐藤とし子」として家庭を支えた日々が、この頃から始まったのです。

浩市という名前の由来

佐藤浩市さんという名前には、父・三國連太郎さんならではの粋なエピソードが隠されています。

実は「浩市」という名前は、三國連太郎さんが当時よく一緒に仕事をしていた2人の映画監督の名前から取ってつけられたものです。その2人とは、映画「無法松の一生」「宮本武蔵」などで知られる映画監督の稲垣浩さんと、「東京物語」「炎上」など数々の傑作を世に送り出した映画監督の市川崑さんです。

稲垣浩の「浩(ひろし)」と市川崑の「市(いち)」を組み合わせて「浩市(こういち)」——映画の世界に深く根ざした三國連太郎さんらしい、遊び心溢れる命名です。

2人の映画監督はいずれも日本映画の黄金時代を支えた巨匠であり、三國連太郎さんもまた、その仕事を通じて多くを学んだ存在でした。そんな師と仰ぐ二人の名を我が子の名に刻んだことには、「映画人の血を継ぐ子どもに育ってほしい」という三國連太郎さんの思いがあったのかもしれません。

一方で、その名を与えられた佐藤浩市さんは、やがて本当に俳優の道へ進みます。父・三國連太郎さんとの関係は長年にわたって複雑なものがありましたが、1991年の映画「息子」(山田洋次監督)での父子共演は大きな話題となりました。浩市という名前に込められた思いは、時の流れとともに息子へと伝わっていったのかもしれません。

三國連太郎の不倫と家出

三國連太郎さんとの不倫と家出についてみていきます。

太地喜和子との不倫と同棲

1962年、三國連太郎さんはまたもや家庭を捨てて家を出ました。

相手は、当時駆け出しの女優だった太地喜和子さんでした。後に「女の一生」「恍惚の人」などの名作で昭和を代表する女優となる太地さんですが、当時はまだ19歳という若さでした。三國連太郎さんは太地喜和子さんと不倫関係に陥り、なんと太地さんの実家に押しかけて同棲を始めるという大胆な行動に出たのです。

三國連太郎さんは太地さんの実家へ正式に挨拶に出向いた際、「10年後、息子が自立できるようになったら結婚させてほしい」と申し出たといわれています。ところが、当時息子の佐藤浩市さんはまだ2歳。三國連太郎さんが言う「10年後」には12歳になる計算で、到底「自立」と呼べる年齢ではありません。三國連太郎さんが年齢をごまかしていたとみられています。

石原とし子さんにとって、結婚からわずか5年での夫の不倫と家出は、あまりにも突然の出来事でした。幼い子どもたちを抱えたまま、突然の別居生活を強いられることになったのです。

置き手紙を残して消えた夫

驚くべきことに、太地喜和子さんとの同棲もわずか3ヶ月(半年という説もあります)で終わりを告げます。

三國連太郎さんは「疲れた」という一言の置き手紙を残して、太地さんの実家からも姿を消しました。不倫のために家庭を捨てておきながら、3ヶ月で「疲れた」という身勝手さは、当時から大きな批判を浴びました。

10年後、雑誌の対談で太地喜和子さんが三國連太郎さんに「なぜあの時逃げ出したのか」と問うと、「あなたの体にひれ伏すことが怖かった。のめり込む危険を避けたかった」と答えたといいます。残された側の石原とし子さんや子どもたちにとっては、たまったものではなかったでしょう。

その後、三國連太郎さんは石原とし子さんのもとへは戻りませんでした。1962年から1972年まで、実に10年間、正式な離婚もないまま別居状態が続きます。石原とし子さんはその10年間、子どもたちを育てながら、法律上の妻としての立場を守り続けたのです。

離婚後に子どもを育てた日々

1972年10月、三國連太郎さんと石原とし子さんはついに正式に離婚しました。別居状態が始まってから10年。長い年月を経て決断された離婚でした。

当時、佐藤浩市さんは小学5年生でした。幼い頃から父親のいない環境で育ってきた子どもたちを、石原とし子さんはひとりで育て上げていきます。

元々は神楽坂一の売れっ子芸者として、誰もが認める実力と誇りを持っていた石原とし子さん。その気概があったからこそ、夫のいない10年間も、離婚後の生活も、毅然として乗り越えることができたのではないでしょうか。

三國連太郎さんは離婚後、1976年に友子さんと4度目の結婚をして新たな家庭を築きましたが、石原とし子さんとの間に生まれた佐藤浩市さんとの父子関係は、長年にわたって複雑なものがありました。しかし1991年の映画「息子」では父子共演を果たし、1993年には「大病人」にも佐藤浩市さんが出演するなど、最終的には芸の世界で深い絆を確認し合っています。

石原とし子さんは、神楽坂の花柳界で培った芯の強さで、ひとりでも子どもたちを立派に育て上げた母でした。彼女の存在なくして、現在の俳優・佐藤浩市さんはなかったといっても過言ではないでしょう。

石原とし子についてまとめ

  • 石原とし子さんは東京・神楽坂一の売れっ子芸者として活躍した女性
  • 勝新太郎さんと常磐津の兄弟弟子という縁があった
  • 1952年に映画「戦国無頼」の撮影合間に三國連太郎さんと出会い、1957年に結婚
  • 1960年に息子・佐藤浩市さんが誕生。娘さんもいるが一般の方
  • 「浩市」という名前は映画監督・稲垣浩と市川崑の名前を組み合わせてつけられた
  • 1962年に三國連太郎さんが太地喜和子さんと不倫・家出。以後10年間別居が続く
  • 1972年10月に正式に離婚。石原とし子さんが子どもたちをひとりで育てた
  • 石原興さんは「必殺シリーズ」の監督で、1973年に女優・尾崎奈々さんと結婚

神楽坂の芸の世界で一時代を築き、波乱の結婚生活を経てもなお子どもたちを力強く育て上げた石原とし子さん。

佐藤浩市さんの母として知られる彼女の存在は、昭和という激動の時代を生き抜いた女性の強さとしなやかさを教えてくれます。

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