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誰もが認める超・癒し系の松下洸平さんの母は、画家でボディビルダーのチャンピオンで幼稚園に勤務している?
女手一つで息子2人を育て上げたパワフルな母親について調べてみました。
目次
松下洸平の母は幼稚園で働いている!
【お母さまは幼稚園教諭、画家、ボディビルダー】
松下洸平さんは母親の職業のことを『VERY』(2023年)でのインタビュー記事でこうコメントされていました。
美術の学校に行っていたのか、何歳から絵を描き始めて画家を職業とするようになったのか、詳細は語られていません。
幼稚園教諭と言っても画家としての仕事もあったと思うので、フルタイムで教諭として働いていたのではなく絵を教えに行っていたのでしょうか。
松下洸平さんが1987年3月生まれなので、母が2歳年上の兄を出産したのが1984か1985年。
20歳で出産していたとしても、母親の年齢は60歳を超えているでしょう。
老人ホームに絵を教えに行ったり、地域のためにいろいろと活動しているようです。
松下洸平の母は画家でもある
『細かい写実的な絵を描く母』
松下洸平さんは、母親の絵をこのように表現していました。
作品として公開されているものは見つけられませんでしたが、女流画家協会や上野の森美術館大賞展に何度も入賞しているほどの腕前だそうです。
実家でも絵画教室を開いていたり、幼稚園や老人ホームなどでも絵を教えているということなので、絵と離れた生活は考えられないのでしょう。
「いつ会っても洋服に絵の具がついている」
と松下洸平さんに言われていました(笑)
着ている服が少しぐらい汚れていようと関係ないんでしょうね。
食事と同様、母親が筆を握らない日はないのでしょう。
リビング兼アトリエ、というほどですから、24時間いつでも画家として作品を描ける空間が心地よさそうです。
そんな母親の画家としての作品は、どこかの画廊に置かれていたのでしょうか。
松下洸平さんから母親の個展に行ったという話は出ていないようです。
母親の私生活はしっかりと護られていますね。
才能は母譲り!?
松下洸平さんはこのステキな作品をわずか8時間で完成させたといいます。
しっかりと画家である母親の才能を受け継いでいるのでしょう。
松下洸平さんの母親は画家として、実家の3階にアトリエを構えていました。
1階はアトリエ兼リビングだったそうで、
「子供の頃から母親の絵を描く背中を見て育った」
と言っています。
何にでも興味を抱く子だったそうで、5歳にして母親の絵に塗り絵感覚で色をつけていたそうですよ。
母としては自分の作品がどうなってしまうのか、筆を持たせながらも内心はドキドキハラハラだったでしょうね。
この力作は、松下洸平さんが中2の時に描いた『ヨーダ』。
ものすごい完成度です。
細かい写実的な作品を描くという母親譲りの才能があるのでしょう。
松下洸平さんは『スターウォーズ』が大好きで、ルーカスフィルムに就職したいとまで考えていたそうです。
松下洸平の母はボディビルダーでもある
松下洸平さんの母には画家として繊細なイメージがあるのですが、実は40代までボディビルダーとしても活躍されていました。
マッチョな身体で筆を持ち、繊細な作品を描いていくというギャップ。
東京都の大会でチャンピオンになったこともあるという実力の持ち主でした。
松下洸平さんの作品をみても、母親の画家としてのDNAをしっかり引き継いでいると思うのですが、肉体的な面も引き継いでいるのでしょうか。
チャンピオンにまで昇り詰めていた母親には、松下洸平さんも役柄によって体型を変えたい時にトレーニング法を相談しているとか。
母親のボディビルダーの大会には応援に行っていたという松下洸平さん。
大会では「いいよ」「キレてる!」というような応援の言葉がよく聞かれますが、松下洸平さんは「背中が冷蔵庫!」という応援の言葉かけていたそうです。
これは、かなり目立つ言葉ですね。
心も体もたくましい『肝っ玉母さん』に、誰からも愛されるほんわかとした癒し系キャラの松下洸平さんが育てられていたというのがちょっと不思議な感じがします。
筋肉の英才教育!?
小さい頃は食が細く弱々しかったという松下洸平さんのために、空手道場に通わせたりしていた母親が作ってくれた朝食は、ご飯とお味噌汁とプロテイン。
「身体を大きくしたいなら、腹を空かすな!」というお告げがあったそうです(笑)
母親から松下洸平さんのもとに届いた荷物の中に、卵と一緒にこんなメッセージがあったとか。
ボディビルダーの母ならではのアドバイスなんですね。
松下洸平の母は母子家庭で女手一つで育ててきた!
松下洸平さんは実家のある東京都八王子市で、母親と2歳年上の兄と3人で暮らしていました。
八王子の3大グルメに入るという有名な「中華そば専門店えびす丸」が行き付けのお店と言っているので八王子っ子間違いなし!と言われています。
松下洸平さんのご両親については、離婚したというハッキリとした情報は出ていませんが、番組やインタビューなどで「一人で育ててくれた母に感謝している」という言葉をよく口にされています。
父親は松下洸平さんと髪質が似てくせっ毛だということを言っているので、父親のことを全否定している感じではないようですが、幼少期から父親と一緒には暮らしていなかったようです。
僕をひとりで育ててくれた母に恩返しがしたいとよく思う。
小さな頃ね、お兄ちゃんとお母さんと3人でNYに行った。
母は僕たちに「自由の女神を観に行こう」と言いました。
引用元:松下洸平 オフィシャルサイトブログ(非公開)
偉大な『自由の女神』に前向きになる力をもらいに行ったのでしょうか。
アグレッシブな母
画家という繊細で豊かな感性を持ち、ボディビルダーとして東京都の大会で優勝するほどのストイックさも持ち合わせている母親。
実はそれだけには収まりきらないアグレッシブな性格のようです。
「今、マサイ族と一緒にいる」
突然そんな連絡がくるんだとか。
アフリカなど行ったことのない土地に興味があるそうで、いくつになっても留まることを知らない行動的な女性なんですね。
どこへでも1人で行ってしまうそうで、松下洸平さんとしては心配事も多いとは思いますが、しっかりとワクチンも打って連絡も取れるようにはしてくれているそうです。
松下洸平の役者になるきっかけが感動する!
松下洸平さんが小学校の発表会で、「日光の小天狗」という劇で天狗役を演じたのですが、その時に役者としての楽しさを感じたと言っています。
松下洸平さん主役の劇だったのですが、母親が多忙で本番当日は観に行くことができないとなり、先生の配慮でリハーサルを見せてもらったそうなのです。
母親のその時の感動は、後に役者としての松下洸平さんのデビュ―作品を見た時の感動よりずっと深かったそうです。
「みんなありがとう。僕は日光に帰るよ」
ラストの場面で、天狗役の松下洸平さんが1人体育館の通路部分に上がりこのセリフを言うのですが。
パッとスポットライトがあたり下にいた全員が自分のことを見上げてきた瞬間、楽しいと同時に胸が熱くなったと振り返っています。
まだこの時は役者になりたい、という気持ちにまではいかなかったようですが、この時の熱い想いが今の役者への道に進むきっかけへとつながっていったのでしょう。
若いうちから保険をかけたくない
画家だった母の影響を受け、絵を描くことが好きだった松下洸平さんは、高校3年生で進路も美大と決めていました。
ところが、高校生がゴスペルを歌う『天使にラブソングを2』を観て感動してしまい、その翌日には「美大進学をやめて歌手になりたい」と言い出し、母親と数日もめてしまったそうです。
母親から「失敗した時のために、何か資格を取ってから挑戦してみては」という妥協案を切り出され、「この若さで人生に保険をかけたくない」と反論。
母親は、その言葉に松下洸平さんの決意を感じ、認めざるを得なかったそうです。
自分のやりたいことを仕事にしてきた母。
自分の腕だけで子を育てながら自らの人生を謳歌してきた母ですが、芸能界という未知の世界は不安定なものとして映っていたのではないでしょうか。
最終的に許したものの、1つだけ条件を出していました。
「嫌いになるまでやりなさい」
条件というよりも、最大のエールではないでしょうか。
松下洸平さんには当時はこの言葉の意味がわからなかったそうです。
でも、今では役者として不安になった時にこの言葉をキーワードに頑張ってくることができたと言っています。
この転機がなかったら今の役者・松下洸平さんも生まれていなかったんですね。